投稿者アーカイブ: agmagape

080928 Auckland Japanese Christian Church Service

2008年9月28日

オークランド日本人教会にて、礼拝メッセージのご用をさせていただきました。

テーマは、「結婚に生命(いのち)を吹き込む決死の愛:死んでもいい、君のためなら」で、エペソ人への手紙5:25から語らせていただきました。

結婚生活に潤いと、生命をもたらす、真実の愛とは何かということについて、聖書の御言葉をもとに、ごいっしょに考えさせていただきたいと思い準備いたしました。

聖書の言葉だけでなく、男女の関係について、以下の仏教の経典からも教えをご紹介して、皆さんで考えてみていただけたら感謝です。

1. 『仏本行集経(ぶっぽんぎょうしゅうきょう)』「捨官(しゃかん)出家品(しゅっけぼん)」の教え

2. 『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』の教え

3. 『転女身経(てんにょしんぎょう)』の教え

4. 阿含経、一の巻二十一丁の教え

5. 法華経第五の巻、薬草喩品(やくそうゆぼん)の教え

6. 大阿弥陀経、本願の第二願、第四十七願四十八願の教え

7. 涅槃経、二十一巻、二十三巻の教え

8. 一切如来金剛三業秘密大教王経の教え

また弥生式土器時代中期の大昔に記された、聖書の中にある、夫に対する教えから学びました。

そして、石川啄木が十三歳の時から恋心を持ち、「白百合のきみ」と呼んだ女性と十九歳になって婚約するまでに彼女との間に交わしたといわれる恋文は、百幾十通もあったそうです。

南極の皇帝ペンギンの父親に見る愛、アメリカ第十六代大統領、アブラハム・リンカーンの逸話に見る、妻への愛についてもご紹介しました。結婚に生命(いのち)を吹き込む、決死の愛のテーマについて学ぶことができます。

I was invited to speak at the Auckland Japanese Christian Church on 28 Sep 2008.  The theme of the message is “The Love demonstrated by laying one’s own life infuses vigor to your marriage: I’ll Place My Life If It Were For You!” based on Eph 5:25.

>神の御名を知らせるとは何? 2

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ものみの塔にお尋ねします8
藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊
神の御名を知らせるとは何? 2

12. ところが、I AM:わたしはあってあるものだと自分を指してそのまま言ったら、その言った人が神様になってしまうので、一人称を三人称に変えて、すなわち・・・I AM を HE IS に直したのがテトラグラマトンYHWHなのです。この意味は、「あってあるお方」つまり初めもなければ、終わりもない、永遠に存在しておられるお方という意味だと思いますが、このことには同意して頂けますでしょうか。

13. ヨハネの福音書8章52節~59節を読んでみて下さい。ここで、アブラハムとイエスキリストについての比較がなされていますね。ユダヤ人たちは、イエスがまだ50歳にもなっていないのに、アブラハムと同時代にいたかのような発言をするなと怒っていますね。

14. その際、イエスキリストは、奇妙な表現を用いられました。8:58でアブラハムが生れる前からと言って、ギノマイという動詞を使われました。それはアブラハムが「出てきた前に」という意味で、アブラムが被造物であるということを暗示する表現でした。

15. ところが、イエスキリストは、ご自身のことを表現する時には、このギノマイを用いることをしなかったばかりか、とんでもない文法上の誤りと思える表現をおとりになったのにお気づきでしょうか。

16. もし、文法上の時制の一致というルールにのっとったならば、アブラハムがゲネスサイ(創造され出現した)以前に、わたしはいた(I was)、又は、それ以前からわたしはいたという意味の完了時制(I have been)を使わなければ正しくありませんね。それなのにイエスは、ここで何とおっしゃったでしょうか。

17. わたしはある(I AM):エゴ・エイミとおっしゃったのです。これはイエスキリストが燃える柴の中から、モーセに語りかけたお方であるということを証明した言葉です。アブラハムが創造される前からイエス様は、永遠に存在しておられる、エゴ・エイミなるお方であるということです。それ以外に、この文法上の誤りを説明する方法があるでしょうか。

18. ユダヤ人たちは、イエスがエゴ・エイミとおっしゃったとたん、石を投げつけようとしましたが、なぜですか。単なる文法上の表現が間違っていたということで、英語の教師のようにイエスの誤りを正してやろうとしたのでしょうか。ユダヤ人にとって、石投げによる死刑を、裁判もなしに執行しようとしたということは、何を意味しているのでしょうか。

19. ものみの塔が教えるように、もしここでユダヤ人たちが、誤ってイエスの主張を受け取り、 「イエスは自分ではエホバであるなどと思ってもいないし、そう主張したわけでもない」のに、ユダヤ人たちは「イエスは自分をエホバだと生意気にも主張している」と誤解してしまっただけなのでしょうか。そう考えた場合、次のような疑問が新たに持ち上がり、問題はより複雑になっていきます。

a. もし、ユダヤ人たちの誤解であったというなら、なぜイエスは、その誤解を解こうともせず、宮から出ていかれたのでしょうか。あたかも彼等が考えたように、イエスは、自分をエホバと等しい者であると主張したことが、真実であるような印象だけを、その場に居合わせた人々に残して・ ・ ・ 

b. もし、ものみの塔が主投稿を公開張するように、イエスキリストはマリヤから生れる前は、天使長ミカエルだったということが真実ならば、なぜこの時、ユダヤ人たちに対してイエスはこう真実を明さなかったのでしょうか。すなわち、「君達、わたしが本当に自分をエホバだと主張しているなどと思ったのかね。とんでもない。わたしもアブラハムと同じ、被造物だよ。わたしは天使ミカエルだったんだよ。誤解しないでほしいな。わたしは自分のことを、永遠から永遠まで存在する者だなんて言った覚えはないよ。」と。

>神の御名を知らせるとは何?

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ものみの塔にお尋ねします

藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊

神の御名を知らせるとは何?

1. マタイ4:10には「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず、この方だけに、神聖な奉仕をささげなければならない。」と書いてあるので、エホバという呼びかたで、聖書の神様のことを伝えない教会は、間遠っているとおっしゃるのですか。

2. 聖書から論じるP. 91にあるように、神の御名を呼ぶもとの正しい発音は、現在では失われており、誰も神の御名をもともとヘブル語で、どのように発音したらよいか正確に知っている人は、現在、地球上に独りもりもいないということには、同意されますか。

3. 「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」のP.43には「神の御名を"ヤハウェ"と発音しようが、 "エホバ”と発音しようが、あるいは自分が話す言語で普通に用いられている発音であろうと、神の御名を用いるのが、正しいのである。間違いは。神の御名を用いないところにある。」という内容のことが、書かれていますが、あなたはもちろんこれを理解した上で、同意しておられますか。

4. 多くの教会はなぜ間違っているのですかという問いには、エホバという呼び方で神のことを呼んでいないとおっしゃり、聖書の翻訳でも、「エホバという用語を用いない」ということが問題だとおっしゃるのですが、その実、神の御名の呼び方は、正確なところ、誰もわからないので、どう呼んでも良いのだともいっておられるのでしょうか。

5. 神のことを「エホバ」と呼んでもいいし、 「ヤハウェ」と呼んでも良い、何でも良い、造り主なる神を何でも好きなように呼びなさいということは、本当に神を敬うことになるのでしょうか。

6. 「どのような発音で呼んでもかまわない」と言っておきながら、キリスト教会が、 「エホバ」という名で神を宣べ伝えていないから、間遠っているというのは、道理にかなった主張でしょうか。

7. 神様を呼ぶのに、正しい呼び方でなければならないという、ものみの塔の主張が正しいとするなら、なぜ神は、その御名を発音する正しい発音を、保存されなかったのでしょうか。

8. 御自身のお名前の発音、呼び名の音を正確な形で称えることが、重要なことであり、御心ならば、たとえユダヤ人が迷信で、神の御名がとても神聖だから口にしなかったとしても、正しい発音が失われて良いはずがありません。そう思いませんか。

9. エホバのもとになっているのは、テトラグラマトンと呼ばれている、YHWHであるという点で、私たちは同意できるでしょうか。

10. そして、このYHWHはどこから来たかと言えば、エへイエ:IHWHからだということが言われていますが、このことはご存じですか。すなわち、申命記6:4の唯一なる神、ヤハウェ「(エホバ)の呼び名は、出エジプト記3章を起源としているというのですが、このことはお聞きになったことはありますか。

11. 燃える柴の中から語りかけた方に、あなたをどのようなお方として理解したら宜しいでしょうかと、モーセが尋ねた時、 「わたしは、あってるものである」と神は御自分の御名を明らかにされました。これがエへイエ:IHWHですね。ギリシャ語訳ですと「エゴ・エイミ」ですね。

>宣べ伝えるべき良い便りとは何ですか?

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ものみの塔にお尋ねします6

藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊

宣べ伝えるべき良い便りとは何ですか?

1. イエス・キリストの伝道と教えの主題は、神の王国についてだったということができますか。また、初代のクリスチャンたちも同様に、神の王国について宣べ伝えたのですか。

2. この王国の良い優りを全地に宣べ伝えているのが、エホバの証人の方々で、一般のキリスト教会は、神の王国について宣べ伝えておらず、ものみの塔組織だけが神の御心を忠実に行なっている、唯一の宗教組織であるとおっしゃるのですか。

3. 一般のキリスト教会も神の国と神の支配、喜ばしい神からの良き知らせグッドニュースを伝えていると思うのですが、ものみの塔が、他の教会とは違い、神の王国について教える時、以下のような特徴があると考えられますが、そう理解して宜しいでしょうか。

A. 神の王国とは、地上から犯罪や戦争をなくし、全ての人々に適当な食物や住宅を供給する、一つの政府による統治のことである。

B. この政府は、イエスキリストを王とし、そのもとで共に統治に参与する、十四万四千人の共同支配者たちによって構成される。

C. これが、イエスキリストとその弟子たちが宣べ伝えたメッセージである。

4. それではお尋ねしますが、主イエスキリストが、福音書の中で、「地上から犯罪や戦争をなくし、全ての人々に適当な食物や住宅を供給する、十四万四千人の共同支配者たちによって構成される神の一つの政府による統治」について語っている個所が、どこかあるでしょうか。 (神の御国ということでなく)

5. イエスキリストと共に共同支配者になる人々が、十四万四千人しかいないとはっきり述べているところは、福音書の中、主イエスが語り教えられた言葉の中にありますか。

6. ペテロやパウロ、ヤコブは、本当に限定十四万四千人の人たちだけが、キリストとの共同支配者になるのだと信じ、そのメッセージを宣べ伝えて、家々を訪問して回ったのでしょうか。又、そのような良い便りを宣べ伝えることこそが、神の真の奉仕者の証拠だと初代教会のクリスチャンたちは、皆、考えていたのでしょうか。

7. やがて来たるべき神の政府で、共同支配者になる人の人数が決っていたというわけですから、当然、一世紀の使徒たちも、クリスチャンたちも、現在のエホバの証人の方々のように、その限定された祝福の椅子にはやく着くよう、人々に伝えていたのでしょうか。現在のものみの塔の組織に属している方々の人数は、十四万四千人をうわまっているために、今は、あまりこの十四万四千人のうちの一人に早く入りなさいといった勧めはなされなくなったでのでしょうが、まだ、余席がたくさんあったと考えられる、使徒の時代には、非常に熱心にこのメッセージが伝えられたと、仮定しても宜しいでしょうか。

8. それではその証拠があるかどうかみてみましょう。使徒の活動の中で「神の政府」と「十四万四千人の共同支配者」について、直接、それらの言葉や用語を用いて、ペテロやパウロが宣明している個所はありますか。そのメッセージこそがエホバの証人、真の神の奉仕者が伝えるべきものだと、ものみの塔はおっしゃるのですから、彼らがメッセージを語る時には、必ずそのことに言及されていなければならないはずですね。もしそうでなければ、いくらパウロやペテロと言えども、ものみの塔には属していない、現在のキリスト教会と同じ罪をおかしていたことになるはずですから・・・。

9. ヨハネ5:39~40に、イエス様が宣べ伝えておられたメッセージの典型的な例が出ています。 「あなたがたは聖書によって(聖書の研究生となって学び、学んだことを実行することによって)永遠の命を持てるようになると考えて、それを調べています。そして、これこそわたしについて証しするものなのです。それなのにあなた方は、命を持つためにわたしのところに来ようとしません。」

ここでイエス様は、永遠の命を持つことができるのは、「聖書を良く研究し、その戒律を従順にまもった、忠実な十四万四千人の限定された人たちだけだ」とおっしゃったのでしょうか。

又、この命を受ける為には、「神の組織に属さねばならない」と教えられたのですか。それともイエスキリストを信じ、キリストのもとに来なさいとおっしゃったのですか。

10. 1コリント15:1~7に、初代のクリスチャンたちが、文字どおり命をかけて宣べ伝えた、良き知らせの典型的な例が記されています。この中心主題は何だったでしょうか。神の政府と共同支配者の十四万四千人についてだったでしょうか。

11. 使徒4:10,12で、ペテロは何について宣明したのですか。

あなた方のすべてとイスラエルの民のすべては知ってください。ナザレ人イエス・キリスト、つまりあなたがたが杭につけた方、しかし神が死人の中からよみがえらせた方の名において、この方によって、この人がここ、あなた方の前に健やかな姿で立っているのだということを。さらに、ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ、わたしたちがそれにうよって救いを得るべき名は天の下にはほかにないからです。使徒4:10,12新世界訳

12. 使徒4:33によると、使徒たちの宣べ伝えたメッセージの中心主題は何についてでしたか。

また、使徒たちは大いなる力をもって主イエスの復活に関する証しを続けた。そして、過分のご親切が彼らすべての上に豊かにあった。使徒4:33新世界訳

13. 使徒5:27~32で、使徒たちは大祭司にどのようなメッセージを語ってはならないと脅かされたのですか。彼らはどのような名の証人となったのですか。エホバという名で教えたのですか。イエスという名で教えたのですか。

こうして彼らを連れて来て、サンへドリン広間に立たせた。そして、大祭司が彼らに質問して言った。「この名によってもう教えてはならないときっぱり命じておいたのに、見よ、あなた方はエルサレムをあなた方の教えで満たしてしまい、しかも、この人の血をわたしたちにもたらそうと来見ている。」それに答えてペテロと[ほかの]使徒たちは言った。「わたしたちは、[自分たちの]支配者として人間より神に従わねばなりません。わたしたちの父祖の神はイエスを、あなたがたが杭に掛けて殺したその方をよみがえらせました。神はこの方を主要な代理者また救い主としてご自分の右に高めました。それは、イスラエルに悔い改めを、また罪の許しを与えるためです。そして、わたしたちはこれらのことの証人であり、聖霊もまたそうです。神はそれを、支配者としてのご自分に従う者たちにお与えになりました。」使徒5:27~32新世界訳

14. 使徒13:38~39で、パウロが宣べ伝えたメッセージの中心主題はなんだったのですか。罪が許され、無罪と宣せられるのは、誰の名によるのですか。誰を信じるだけでよいのですか。

ですから、兄弟たち、このことを知ってください。すなわち、この方を通して罪の許しがあなた方に広められており、モーセの律法のもとであなたがたが無罪と宣せられなかったすべてのことについても、信じる者は、この方によって無罪と宣せられるということです。使徒13:38~39新世界訳

>永遠に続く心の疲労回復

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永遠に続く心の疲労回復

藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊

私たちはどのような時疲労感を覚えるでしょうか。仕事や勉強のやりすぎはもちろん、楽しいはずの遊びでも徹夜などしようものなら、ぐったりして休息の必要を感じるものです。実際、身体の疲労は休息をとれば、ほんどの疲れは回復するものです。 しかし、疲労を身体のことだけととらえるのは、正しくありません。医学的にも疲労の起こる生理的メカニズムは、完全には解明されていないそうです。本人の自覚症状で判断するしかないとも言われています。つまり、疲労は、感覚という側面、身体ではなく、実は私たちの心が感じるものらしいのです。言い換えれば、疲労は心に生じるものだということのようです。

聖書に次のような御言葉があります。

人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。 箴言18:14

人を耐えられないほどひしがれた心にするものがあると聖書は言うのです。ひしがれた心はだれにも耐えられないほど辛いというのです。

  身体の病気の苦しみは何とか耐え切ることができても、ひしがれた心は耐えられないほど辛いとこの聖句は言います。ひしがれた心とは痛む心であり、沈みこみ落ち込んだ状態です。使われている原語では、ひしがれたとは、ナウカウ(naka)というヘブル語が用いられており、この語はもともと「殴る、強打する、襲う」という意味があり、精神的に打撃を与え、悩ますという意味で用いられる語です。ではどのような状況で私たちの心はダンプカーでひき逃げされたように、ぺっちゃんこに打ちひしがれるのでしょう。

よく聞かないうちに返事をする人は人を傷つけると警告する言葉が聖書に記されています。

  よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。箴言18:13

相手の話を良く聞かないで返答する人は恥をかくことになるというのです。確かに人の話を最後まで聞かず、あるいは、まったく相手の話を聞かずに自分の推測をもとに勝手に判断をくだして、人を攻撃する人がいます。

以前、テレビで次のような親と子の関係にスポットをあてた番組が放送されていたそうです。 (続・生きる勇気がわいてくる聖書のメッセージP.45-46参照)

隠しカメラを使って、ある一家の夕食風景が映し出されていました。
「おい、お前、最近ちゃんとやっているのか!」 「・・・・・・」 「勉強しなきゃだめだぞ!」 「・・・・な、なんなんだよ。急に、うっせいな!」
父親は四十七歳、サラリーマン。息子は高校三年生。最近夜、十時過ぎになると頻繁に電話がかかってくる。そう母親から伝え聞いた父は、気が気でない。この日はめずらしく親子そろって夕食をとったようです。先に紹介した会話はそのときのものです。この会話の前には気まずい雰囲気が続いていました。ビールをぐーっと飲み干した元気で、やっとのこと父親が口を開いた時の第一声が、「おい、お前、最近ちゃんとやっているのか!」でした。
その後、会話は息子への電話がきっとガールフレンドからのものと思いこんだ父親の、シドロモドロの説教が続きます。息子との会話はまったくなりたちません。息子は顔を真っ赤にして怒り、「友だち?男の友だちだよ!」と抗議します。父親はオロオロして、酔いもまわっていたのか言葉が支離滅裂になって隠しカメラの映像は終了しました。
このお父さんは、息子の生活について勝手な推測をもとに最初から問題があるかのような決め付けをし、疑いの目を持った敵対的、攻撃的な言葉を一方的に投げつけています。息子にとっては、突然、辻斬り強盗に斬りつけられたようなものです。心に深い傷が残ったのではないでしょうか。相手の立場を十分考慮せず、本人以外の人から聞いた情報や噂話をもとに一方的に攻撃すると、攻撃された人の心には大きな傷が残るものです

また、見当はずれな非難や攻撃、誤解をもとに一方的に悪いと決め付けられたりすることも大きなダメージを与えるものです。

  私には中学時代、技術家庭科の教師との苦い思い出があります。技術家庭科の先生は、あだ名が、「じいちゃ」といい、とても恐い先生でした。すぐ暴力をふるう先生でした。  中学一年生だったある日、私たちが技術家庭の授業で、校庭の花壇に出て、作業をしていました。その最中に、あの「じいちゃ」先生が、突然、私のほうを見て、「おい、井合。」と呼びました。

僕は池田という名前なので、自分が呼ばれたのではないと思い、知らんふりをして黙々と作業をしていました。そうしましたら、「おい、井合。井合だ。井合!」と叫ぶや、先生は僕のほうにツカツカとやってきました。先生が呼んでいるのに知らんふりをして、無視したということで怒られたのでしょう。手に持っていた金槌の柄の部分で僕の頭をゴツーンと殴りつけました。あまりの突然のことで、痛みもあって、僕は何も言い返すことができませんでした。
  完全に先生の間違いであり、人違いでした。僕の立場を全く考慮しないで、一方的に金槌で殴りつけられたのです。金属の部分で殴られなかったのが唯一幸いなことでしたが、この経験は、僕の心に深い傷と、「じいちゃ」先生に対する憎しみを刻みつけたのでした。

うちひしがれた心はだれにも耐えられないほど辛いものです 相手の話を良く聞かないで返答する人は人を傷つけます。相手の立場を考慮せず、一方的に攻撃すると、その人の心には大きな傷が残るものです。また、そればかりでなく、先手必勝と言わんばかり、破壊的な攻撃をしまくる人がいますが、そのような人も、人の心に大きな傷を負わせます。そのような人は、先に、相手をひどく非難、中傷することで自分を正当化しようとする人です。ところが相手の言い分を聞いてみると事実はそう単純ではないことが多いのです。聖書にこのような御言葉があります。

先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。 箴言18:17口語訳

人の心に致命傷となるような傷を負わせることばがあるのです。

軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。 箴言12:18

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。  箴言15:1

  しかしその反対に人を癒し、生かすことばもあるのです。それは、創造主の愛と慰めの御言葉です。イエス・キリストの言葉をご紹介しましょう。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ11:28

イエス・キリストは私たちの傷ついた心、疲れた心を癒し、人生を押しつぶしてしまうかのような重荷を私たちと共に担ってくださるというのです。人間の心はなぜ傷つくのでしょうか。

傷つける人がいるからです。では、傷つく人は一方的に被害者で終わるというのでしょうか。いいえ、そうではありません。傷つけられた人本人がまた加害者ともなりうるのです。鋭い言葉で相手に言い返したり、別の人に当たり散らしたりすることで、自分以外の人を傷つけることも多々あるのです。このような問題を聖書では「罪」と呼んでいます。

全ての人は、その意味では罪を犯しており、自分自身が被害者でもありますが、加害者ともなっている現実があるのです。その責任を私たちがひとりひとり問われて当たり前なのに、イエス・キリストという罪の無い方が、十字架にかかられ、血を流して、私やあなたの代わりに償いをなしとげてくたさったと聖書は教えています。また、キリストは三日後に死からよみがえり、永遠のいのちを無償の贈物として私たちに提供しておられるのです。

このイエスキリストというお方をあなたが、ご自分の救い主(永遠のいのちの恩人)として信頼するとき、すなわち「神様有り難うこざいます。こんな私ですが宜しくお願いします。」と申し上げるだけであなたの罪はゆるされ、心がきよめられ、永遠の命がプレゼントとして与えられます。

聖書の言葉

「渇いている者は来なさい。誰でも、いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」  黙示録22章17節

人生で疲れ、複雑な人間関係の中で心傷ついている方がおられましたら、今、この素晴らしい創造主の愛と赦しを受けとり、永遠に続く心の疲労回復(イエス・キリストにある平安)をあなたも御自分のものとなさいませんか。

>モルモン教会にご質問します

>モルモン教会にご質問します

以下に掲載しましたのは、私がモルモン教会の日本本部にお問い合わせをした質問です。モルモン教会日本本部からの返答は頂けませんでしたが、後日、このブログにお尋ねした質問を掲載したところ、モルモン教会の信者(末日聖徒イエス・キリスト教会の会員)だとおっしゃる、オムナイさんという方から、コメントの形で返答をいただきました。私がお尋ねした質問とオムナイさんからのご返答を下に貼り付けます。

モルモン教会が教えておられると思われることについて、疑問がありますのでご質問します。

1. モルモン教会は、唯一の神ではなく、多くの神々があると教えていますか?  旧約聖書イザヤ44:6, 8; 45:5, 6, 18, 21, 22 では、どう教えられていますか?   モルモン経アルマ書11:26-31,35は「神は一つよりも多いか」というゼーズロムの質問に対して、アミュレクがそうではないと答えている部分がありますが、アミュレクは、間違った情報を天使から受け取ったのですか?

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コメントとしてモルモン教会の信者、オムナイさんからお寄せ頂いた返答

こんにちはいわゆるモルモン教会の信者(末日聖徒イエス・キリスト教会の会員)です。
一信者ですので教会を代表するものではありませんが、理解する所を紹介します。

モルモンでは永遠の父なる神と、その御子イエス・キリストと、聖霊を神として信仰しています。
アミュレクとゼーズロムの場面では旧約の神(イエス・キリスト)ついて論じています。モルモンでは旧約でモーセに現れた神を救い主キリストであると信じています。

2. モルモン教会は、イエス・キリストがルシファーの霊的兄弟(spirit-brother)だと教えていますか?  イエス・キリストは被造物であり、永遠の創造主ではないとモルモン教会は教えていますか?  Journal of Discourses, Volume 13, page 282.の教えと、モルモン経モーサヤ書3:8, 5:15の教え、すなわち「イエス・キリストは、天地の父、創世の時から万物をつくりたもうている造り主であり、その御名を信ずる信仰によってさえも救いを与えるために来られたお方、全能の神である」という記述とは、どちらが正しいのですか?  モーサヤ書15:1-4では、「御父と御子とは一つの神会を成し、かれらはまことに天地の真の永遠の父である」と教えられていますが、イエス・キリストが被造物であるとか、ルシファーの霊的兄弟だと教えている聖書の箇所、モルモン経の箇所はありますか?

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コメントとしてモルモン教会の信者、オムナイさんからお寄せ頂いた返答

全ての霊は父なる神の子らですから、ルシフェル(サタン)も例外ではありません。キリストは私たちの霊的長兄として捉えています。キリストはその霊の代表として救い主となり、旧約の神となりました。教義と聖約25章がわかりやすく書かれています。すなわち、神の前で権威を持もっていた神の一天使が、御父から愛されて御父の懐におられた独り子に背き、神と御子の前から落とされ、そして、滅びと呼ばれた。もろもろの天は彼のために泣き悲しんだからである。彼は暁の子ルシフェルであった。

3. モルモン教会は、イエス・キリストが、父なる神とマリヤとが性的関係を結ぶことによって誕生したと教えていますか?  マリヤは処女であったが、聖霊によってイエス・キリストを受胎し、出産したと教えていますか?  Journal of Discourses, Volume 4, Page218 は何と教えていますか?この教えと新約聖書マタイ1:23、そしてモルモン経アルマ書7:10の教えとではどちらが正しいのですか?

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コメントとしてモルモン教会の信者、オムナイさんからお寄せ頂いた返答

キリストが父なる神の肉体的な子であると教えられています。性的関係があったかなかったについては教えられていないようです。聖霊が仲立ちをし父なる神様の肉体的性質を受けついだと理解しています。

4. モルモン教会は、父なる神が骨や肉をもっておられると教えていますか?  Doctrine and Covenants, Section 130の教理と、新約聖書ヨハネ4:24、ルカ24:39の教え、旧約聖書エレミヤ書23:24の記述とどう調和しますか?

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コメントとしてモルモン教会の信者、オムナイさんからお寄せ頂いた返答

はい、神は骨肉の体をもっていると教えられています。
また復活したイエス様も骨肉の体をもっていると信じています。
生まれる前のイエスは旧約の神で霊体でした。
青少年向けの教材には以下のように説明されています。
ヨハネ4:24――「神は霊である」
わたしたちは聖典のほかの聖句,特に現代の啓示を通して,
神はその霊に,復活し栄光化された骨肉の体をまとっておられ
るということを教えられています(創世1:2 6-2 7;ルカ2 4:
3 9;教義と聖約1 3 0:2 2参照)

5. モルモン教会は、父なる神は以前、人間だったと教えていますか?  モルモン教会を設立したヨセフ・スミスの King Follett Discourse 最後の部分や、Journal of Discourses, Volume 6, pages 5-6 が、父なる神は以前人間だったのに神になったと教えていることと、モルモン経モロナイ書8:18で「神は変わりたもうことのない方で無限の過去から無限の未来にわたって同じ、不変のお方である」という教え、また、モルモン書 9:9,10,19に明確に教えられている、「神は昨日も今日も、いつまでも同じにましますお方、変わりたもうことのないお方である」ということとは、矛盾しませんか?どちらが正しいのですか?

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コメントとしてモルモン教会の信者、オムナイさんからお寄せ頂いた返答

父なる神も私たちと同じように人生の経験を経て「霊の父」となりました。神様も私たちも究極的には創造されたものではなく永遠の存在であり、その意味では変わる事のないものです。

6.モルモン教会は、私たち人間もモルモン教会の戒律を守るなら、やがて神になることができ、自分自身の惑星を与えられ、統治することになると教えていますか?  Doctrine and Covenants, Section 130, 132は、どのようなことを教えていますか?  私たちが戒律を守ることによって、やがて神になることができ、自分の惑星を所有し統治するということを教えている旧約聖書、新約聖書の箇所はありますか?あればどこですか?

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コメントとしてモルモン教会の信者、オムナイさんからお寄せ頂いた返答

「自分自身の惑星」というよりも「自分自身の宇宙」といった方が良いかも知れません。現在認知しうる恒星、惑星、も含め全ての空間は父なる神が治めています。冠「永遠の命」参照統治者が頭にかぶった環状の装身具。冠は日の栄えの力と主権と神の位にあることの象徴ともされる。神の戒めをすべて守って最後まで堪え忍ぶ者は,永遠の命の冠を受ける(教義20:14;モセ7:56;ジ―マタ1:1参照)。義の冠がわたしを待っている(2テモ4:8)。しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう(1ペテ5:4)。主にあって死んだ者は義の冠を受ける(教義29:13)。彼らは父の住まいで冠を受けるであろう(教義59:2)。あなたがたが備えられた冠を受け(教義78:15)。わたしの右手における栄光の冠をあなたがたに約束した(教義104:7)。

7. モルモン教会は、イエス・キリストは、救いの道の一部分を成し遂げたお方でしかなく、人間はモルモン教会の戒律を守り、儀式(ordinances)を受けることによって自らの救いを完成させなければならないと教えていますか?  もしそうならば、モルモン経アルマ書11:39-40の「神の御子は罪を贖うためにこの世に降臨し、その名を信ずるすべての者の罪とがを負いたもう。このような人たちは、永遠の生命を受ける者であって、そのほかには一人も救いを与えられない」という教えは不十分だったのですか。  新約聖書エペソ2:8-9、ローマ4:4,5; 6:23、ガラテヤ2:16、テトス3:5、ヨハネ3:16-18、黙示録22:17は戒律を守ることや、儀式を受けることによってではなく、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れる信仰のみによって、罪の赦し、永遠のいのちが与えられると教えていますが、これらの聖書の記述をモルモン教会はどう理解されますか?

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コメントとしてモルモン教会の信者、オムナイさんからお寄せ頂いた返答

イエス様は救いに関する道筋を全て整えられました。あとは私たち次第ということになります。使徒行伝(新約聖書) 13:38だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、とあるように古い律法である「モーセの律法」では救われない、新しい律法すなわち「キリストの律法」でなければ救われない。というのが新約の主旨だと理解しています。ガラテヤ人への手紙(新約聖書) 6:2互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。ヤコブの手紙(新約聖書) 1:25これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

モルモン書の聖句ガイド「律法」神が定められた戒め,あるいは定め。天においても地上においても,祝福や罰はすべて律法に基づいて与えられる。神の律法に従う人々は約束された祝福を受ける。預言者ジョセフ・スミスは,人は国法にも従い,それを尊び,支持しなければならないと教えた(箇条1:12)。モーセの律法は,人々をキリストに導くための備えの律法であった。モーセの律法は,制限的規定や規則,儀式を定めたものであった。モーセの律法を成就した現在のキリストの律法は、完全な福音すなわち「完全な自由の律法」(新ヤコ 1:25)である。

>モルモン教会の起源と教えの特徴

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モルモン教会の正式名称は、末日聖徒イエス・キリスト教会といいます。末日というのは、全世界の終わりが近づいた時代という意味です。イエス・キリスト教会という名前がついているため、多くの人は、モルモン教会もキリスト教の一教派だと考えてしまうのです。しかし、その起源と教えの権威として用いている教典や、教えの内容を考えるならば、モルモン教会は、一般的なキリスト教会とは大きく違っています。似たような用語をもちいてはいますが、彼らが意味するところは、一般的なキリスト教会が理解するところとは、全然違っています。まず、その歴史的な側面を考察し、次に教えの内容を見ていきたいと思います。

モルモン教は、比較的新しい宗教です。創設者は、ジョセフ・スミス(Joseph Smith)という人です。彼は1805年12月23日にアメリカのバーモント州のシャロンという町で誕生しました。彼が18才になった時のことです。1823年9月21日の夜、モロナイ(Moroni)という天使が彼の前に現れたといいます。そして、アメリカ大陸の先住民についての起源及びその記録と共に完全な永遠の福音が刻まれている金でできた板、金版、そして、二個の宝石「ウリムとトミム」がついている胸当てが地面深く埋められていると告げたそうです。そのようなことが三度あって、三度目に天使モロナイがお告げを語った後、天に昇っていくと同時に、にわとりが鳴いたといいます。その後、彼は、ニューヨーク州、マンチェスターという村の近くの大きな丘の西側にかなりの大きさの石があって、その下に石の箱があり、天使が告げた金版と二つの宝石がついた胸当てが置かれてあったのを発見したそうです。でも、天使が言うには、これらの品を世に発表するのはまだ、早いといいます。四年待てというので、彼は、毎年一度、その場所に行くことにしました。

1827年9月22日、ジョセフ・スミスは、許可が出て、天使モロナイから、この金版と二つの宝石が付いた胸当てを受け取ります。そして、金版に書かれてあった文字を書き写し始めるのです。かなりの文字を写し取り、その中のいくらの部分を「ウリムとトミム」を使うことで英語に翻訳することができたそうです。それら金版に記されていた文字は何語だったかといいますと、ニューヨークの文学の権威者、チャールズ・アントン教授によれば、おおかたは古代エジプト語で、そのほかにカルデヤ語、アッシリア語、アラビア語だったそうです。そして、ジョセフ・スミスがもってきた翻訳ほど正確な翻訳は見たことがないとアントン教授は言ったとのことです。それで教授は証明書を書いて下さったそうです。先生が、その金版が埋められていた場所がどうして君にわかったのだねと尋ねられた時、スミスは、天使が教えてくれましたと答えます。そうしたら、アントン教授は、その証明書をよこせと言ったといいます。そして「今時、天使が現れるなどということはない。もし金版を私に見せてくれたら、私が直接翻訳してあげよう。」と言い、書いたばかりの証明書をずたずたに破ってしまったので、現在はそのような証明書は、存在していないのだそうです。その後、ジョセフ・スミスは、彼の父親の家の近所に住む学校の教師だったオリヴァ・カウドリという人と一緒にヨハネという名前の天使からバプテスマを受けたといいます。1829年5月15日のことだったそうです。

少々長くなりましたが、これが、預言者ジョセフ・スミスの証(あかし)という印刷物に記されている内容です。

誰でも、「モルモン経」という教典を開いて最初に目に付くのは、「三人の見証者の証言」という部分と、「八人の見証者の証言」という部分だと思います。合計で十一人の証言者の名前があげられています。つまり、上記のスミスが体験したという物語の信憑性を、この十一人の人たちが間違いない、真実だと太鼓判を押したということなのです。彼らは、ジョセフ・スミスが翻訳に当たった、古代エジプト語で書かれていたというその文字と金版とを自分たちの目で見たといいます。ところが、なんと、その十一人の内、八人は、モルモン教会から脱会しているのです。残ったのは、ジョセフ・スミスの父親と二人の人物だけです。

脱会者たちをご紹介します。デビッド・ホイットマーは、1838年6月「モルモン教会から離れよ」と神の声を聞いたということで、脱会します。オリヴァ・カウドリも脱会し、1841年にオハイオ州のメソジスト教会の会員になりました。マーティン・ハリスは、スミスが見つけた金版とは別の金版を発見したと主張するジェームズ・スタラングという人の弟子になってしまいました。ハリスという人は、信仰を13回も変えた人物で、モルモン教徒になったのは6番目のことでした。ハイラム・ページも脱会しました。そのためモルモン教会は、「教義と聖約」28章11節でハイラム・ページが記録した部分は、すべて神によるものではなく、サタンの欺きだったと記しているほどです。このページという人もハリスと同様、ジェームズ・スタラングの弟子になってしまいました。そのほか、クリスチャン・ホイットマー、ジェコブ・ホイットマー、ピーター・ホイットマー(二代目)、ジョン・ホイットマーらも脱会しています。脱会せず残ったのは、父親のジョセフ・スミス(初代)とハイラム・スミス、そしてサミュエル・H・スミスの三人だけです。

 

いずれにしても、ジョセフ・スミスの語ったことは、真実からはほど遠い、でたらめの作り話だったということです。もっとゆゆしきことは、彼が翻訳の作業を終えた後、三人の見証者(後になってこの三人とも、モルモン教会を脱会しましたが、オリヴァ・カウドリ、デビッド・ホイットマー、マーテン・ハリスの三人)のいる前で、「ジョセフ・スミスの翻訳は正確である」と天から神の言葉が語られたとのことですが、何と1830年に発行された「モルモン経」と、現在使用されているものとを比べてみると、3913カ所もの変更がなされていることです。翻訳の言い回しや文法的表記を変えたものだけではなく、意味が全く変わってしまったところもあります。3913カ所も変更されなければならない本が果たして、「神の賜物と能力によって」正確に翻訳されたと言い切れるのでしょうか。しかも、その翻訳に間違いがないという天からの声を聞いたという、三人の証人全員が、ことごとくモルモン教から脱会しているのです。

アメリカのワシントンDCにあるスミソニアン博物館研究所の文化人類学部門は1978年2月にモルモン経について、こう述べています。

1. The Smithsonian Institution has never used the Book of Mormon in any way as a scientific guide.  Smithsonian archeologists see no direct connection between the archeology of the New World and the subject matter of the book. ….

5. …steel, glass, and silk were not used in the New World before 1492…

8. findings of ancient Egyptian, …. None of these claims has stood up.

1. スミソニアン博物館は、モルモン経をどのようなかたちであろうと、科学的な資料として参考としたことはない。スミソニアンに属する考古学者たちは新大陸についての考古学とこの本(モルモン経)が主題として記すこととの間に直接的関わりは一切ないと考えている。・・・ 

5. ・・・鉄器、ガラス、そして絹は、1492年以前には、新大陸で用いられてはいない・・・

8. 古代エジプトの発掘物・・・(モルモン経が)主張しているどれ一つとして、信用できる説得力のあるものはない。

実は、モルモン経の中身は、ジョセフ・スミスが、古代エジプト語から翻訳したものなどでは、決してありませんでした。そうではなくて、1812年、ソロモン・スポールディング(Solomon spaulding)という人が書いた幻想的な歴史小説そっくりなのです。スポールディングという人は、少々、精神病をわずらっていた人で、アメリカ原住民の先祖はイスラエルの末裔だと信じこんでいた人です。彼が晩年、その自説を小説風に書き、「発見された写本」という題名で書いたのです。それを、ジョセフ・スミスが入手し、マーティン・ハリスが出版しました。これがモルモン経です。ジョセフ・スミスは、無軌道で放縦な人で、かつ淫乱な人でした。かねてから数名の女性と性的関係を持っており、彼女たちと同棲していました。それで彼は多くの人から非難されていました。ところが、1843年、自分は、神から直接啓示を受けたと言い出します。公然と一夫多妻主義を正当化したのです。そして、堂々と自ら開始した宗教の教えとして、多くの女性に手を出し、性的関係をもつことを堂々と実践し始めました。ジョセフ・スミスは、自分が神であると言いだし、地上の者たちに魂を与えることが使命だと宣言します。そして、多くの子供を持つことが、天国で高い位を得る方法だと教えたのです。彼の後継者、ブリガム・ヤングもスミス同様、多妻主義をモルモン教会の教えの根幹としました。

ヤングは17人の妻を持ち、56人の子供を持っていたそうです。1871年アメリカ合衆国政府は、多妻主義がアメリカの国法に反することから、ヤングを逮捕します。しかし、モルモン教徒は依然、一夫多妻主義を神の御心であると主張し、実行し続けたのです。それで、1873年、アメリカは国法によって多妻禁止法を制定するに至ったのです。現在では、表向き、モルモン教会は多妻主義をとっていないということになっています。

 

興味深いことに、実は、モルモン教会の公の教えの多くは、モルモン経に教えられているわけではありません。むしろ現在、公に教えられている教えのいくつかは、モルモン経典の言葉と矛盾しているのです。このことに関して、私はモルモン教会の日本本部に問い合わせのメールを送り、返答を待っています。
以下、モルモン教会が教えている教えが、聖書の教えと違っている主なものをご紹介します。

1. モルモン教会は、創造主である父なる神は、かつて人間であったことがあり、神になったのだと教えます。聖書は三位一体の唯一の創造主について教えていますが、彼らはそれを否定します。そして、父なる神、子なる神、聖霊なる神は、それぞれ別々の神々であると考えます。基本的にモルモン教会の神概念は多神教です。

2. イエス・キリストについて、モルモン教会は、被造物の天使であり、ルシファー(堕落してサタンとなった)の霊的兄弟(sipirit-brother)だと教えます。聖書によれば、イエスさまは、万物の創造主であられ、ルシファーや、ミカエル、ガブリエルをも含む天使たちをも創造されたお方です。

  御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 コロサイ1:15-17  初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。  ヨハネ1:1-3  

この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。ヘブル1:2-3  さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。  ヘブル1:6-8  

3. モルモン教会は、旧新約聖書だけでなく、モルモン経を神の啓示の書とします。そして、それだけでなく、彼ら独自の教えを裏付けるために「教義と聖約」そして「高価なる真珠」という書物も聖典とします。

4. 救いについて、モルモン教会は一般の教会とは全く違う独自の教理を教えます。モルモン教徒にとっての救いとは、モルモン教会が教える教えを守り、儀式を受けることで、死後、神になることができるといいます。これが救いです。そして、良いモルモン教徒は、新しい宇宙の惑星をご褒美として与えられ、その惑星を支配する神になるといいます。そのとき、子供をたくさん産むことが繁栄のしるしとなるのだそうです。聖書が教える救いは、主イエスキリストが自らの罪のために十字架で死んで下さり、死からよみがえり永遠のいのちを与えて下さることを信じ受け入れるだけで、罪赦され、天の御国に入れていただく特権を与えられることを意味します。ヨハネ1:12; 3:16-18; ローマ5:8

5. 救いに必要な条件に関しても、モルモン教会は聖書の教えとは全く違うことを教えます。モルモン教会によれば、イエス・キリストを救い主と信じるだけでは不十分だといいます。全ての罪を悔いて、改善しなければならないと言います。つまり、数えることができる罪の悔い改めを救いの条件とします。そして、モルモン教会が施すバプテスマの儀式を受けることも救いの条件です。そして聖霊の賜物を得るための按手礼を受け、モルモン教会が教える戒めのすべてを守り行わなければなりません。

  聖書は、このようなモルモン教会が教えるような、人間の努力で、戒律を守ったり、儀式を受けたりすることが救いの条件だと教えていません。そうではなくイエス・キリストを罪からの救い主、永遠のいのちの恩人として信じ受け入れるだけで救われると聖書は教えています。    

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。   エペソ2:8-9  

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。  テトス3:5-7  

聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 ローマ4:3-5  

しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。  ガラテヤ2:16

 

>私たちは誰を礼拝すべきですか

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ものみの塔にお尋ねします5

藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊

私たちは誰を礼拝すべきですか

1. 出エジプト34:14;マタイ4:14によれば私たちが礼拝プロスキュネオすべきお方は誰だと書いてありますか。

2. 使徒10:26によれば、単なる人間は礼拝されてはならないのですか。

3. 人間以外にも礼拝を受けてはならないものがあるとして、黙示録22:9は教えていますが、それらは何ですか。

4. 父なる神やエホバを礼拝するときの言葉プロスキュネオはイエス・キリストにも用いられていますか。  マタイ8:2、9:18、15:25、 14:33、28:9; ヨハネ9:33-38

5. イエスは上の聖句のどの場合でも、御自分に対してプロスキュネオした人を非難されませんでしたが、どうしてですか。 へブル語のシャハーは敬意をさきげるという意味にも訳せる広い意味をもった言葉ですが、ギリシャ語のプロスキュネオという語はひれふして崇拝すること、神、超自然的存在者、あるいは偶像を拝む礼拝行為を意味する言葉です(岩隈直著 新約ギリシャ語辞典)。敬意を現わしたとか、うやうやしく挨拶したと訳すのは、誤訳です。

6. へブル1:6~9を読んでみて下さい。ここで(1:6)父なる神は天使たち、全ての天使たちというのですから、当然、ガブリエルもミカエルも含まれるわけですが、天使たちは皆、誰をプロスキュネオ(崇拝)せよと命令されていますか。

7. 天使は礼拝を受けてはならない訳ですが、礼拝をささげても良いわけです。その天使たちの礼拝を受けるお方が、単なる人間や天使長なとではなくて、神であられれば、礼拝者が罪をおかすことにはなりませんね。その意味で、御子は、「神」と1:8,9で呼ばれています。御子が、「ミカエル」とは呼ばれていないのは、明らかだと思います。ところが、もし主イエスが、ものみの塔の教えのように、天使長ミカエルだったとすれば、御使いたちに「天使ミカエルを崇拝せよ」と命じた父なる神は、罪をおかしたことなるのですか。

8. ネへミヤ記9:6によれば、「天の軍勢(ミカエルをも含む)、又、天使たちは、ヤーウェ(エホバ)のみを礼拝しなければならない」と書いてありますね。神以外のものにエホバに対すると同じ礼拝をささげてはらないという意味に解釈しても良いでしょうか。

9. ヨハネ20:26~29を読んでみて下さい。復活された主イエス・キリストに会い、トマスは「信じなさい」と言われました。そしてその応答として、トマスは、主イエスに向かい何と呼びかけ、何を信じたのですか。28節のトマスの言葉は、主イエスをどなたと告白し、呼びかけていますか。

10. 黙示鏡4:10~11で、24人の長老たちの礼拝を受けておられるのは誰ですか。

11. 黙示録5:11-12で、天使の軍勢から栄光と誉れと力の讃辞を4:11の永遠に生きておられるお方と等しく受けているのは誰ですか。

12. もしこひつじイエス・キリストが被造物であり、天使長ミカエルだとすれば、永遠のエホバのみが受けるべき礼拝を受けている事実は、どう説明がつくのですか。

13. 黙示録5:8で、四つの生き物と24人の長老は誰の前にひれふしていますか。

14. 黙示線5:13~14で、すべての被造物が「讃美と誉れと栄光とカが永遠に」誰にあるようにと言っていますか。主イエスは天使ミカエルと等しい栄光を受けているのですか。誰と同じ栄光、讃美、礼拝を受けているのですか。14節で長老たちは何をしていますか。

>誰の名によってバプテスマを受けるのですか?

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ものみの塔にお尋ねします 4

誰の名によってバプテスマを受けるのですか?

藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊

1. パブテスマの命令は主イエスキリストによって発っせられました。マタイ28:19を御覧下さい。

ところで、 英語で、山田さんと鈴木さんと佐藤さんの名前によってという時は、名前という単語は複数形だと思いますか、単数形だと思いますか。ギリシャ語でも、AとBとCとの名によってパブテスマを施すという時は、文法的には複数形でなければ正しくありません。ところがマタイ28:19をみて下さい。ト・オノマとなっています。複数形で文法的に正しく書くならば、タ・オノマタとなっていなければなりません。

2. 父・聖霊・御子のお名前として、唯一の御名とは何なのでしょう。

父にも、ご聖霊にも、御子にも共通する唯一の御名があることをこのパブテスマの命令は、文法の誤りを押してでも伝えているのです。その御名とは何なのでしょう。

3. ものみの塔の教えを受け、パブテスマを受ける人たちは、いったいどのような御名によってパブテスマを受けるのですか。

4. 新約聖書の記録によると、初代のクリスチャンたちはいったい誰の御名によってパブテスマを受けていたのでしょうか。

使徒2:38; 8:16; 10:48; 19:55

イエスの御名がエホバの御名と同じであると考えるのと、イエスの御名が大天使ミカエルの名と同じだと考えるのとどちらがより道理にかなっているでしょうか。イエスを見た者は天使ミカエルを見たのと同じなのでしょうか。それともエホバである父なる神を見たのと同じなのでしょうか。

1. ヨハネl:18 神を見た者はいない、ひとりもいない。

2. ヨハネ6:46 父なる神を見た者はいない。

3. ひとり子なる神、御子イエス・キリストだけが、父なる神を知っておられ、ときあかされた。

ヨハネ1:18; 6:46

4.  「私たちに父を見せて下さい。」とピリポが言った時、主イエスは何と答えられましたか。ヨハネ14:95.  「私を見た著は、天使ミカエルを見たのです」と主は言われたでしょうか。 「父を見たのです」とおっしゃったのでしょうか。6. ヨハネ10:30で、主イエスは天使ミカエルと、ご自分がひとつだとおっしゃったのでしょうか。それとも父と一つだとおっしゃったのでしょうか。

誰が救い主なのでしょう?

1. 旧約聖書でみると救い主はエホバのみと書かれています。

イザヤ43:10, 11; ホセア13 :4罪を赦す方はエホバのみです。 イザヤ43:25

旧約聖書のいったいどこに、天使ミカエルが救い主だとか、罪を赦す権威を持っている者だと教えていますか。

そのような聖句が一つでもありますか。

2. 新約聖書は、誰が唯一の救い主であり、罪を赦す権威を持ったお方だと教えていますか。

ルカ2:11; テトス1:4  ヨハネ4 :42  ヨハネ1:29; マルコ2:5使徒10:43では、誰の名によって罪の赦しが得られると語っていますか。

その名とは、ミカエルという名でしょうか、それともエホバという名でしょうか。

誰の名を呼んだら、救われますか?

1. ヨエル2:32には何と書いてありますか。

2. ローマ10:9~13で、誰の名を呼び求める者は救われると書いてありますか。

3. 使徒4:10-12を見ると、「私たちが救われるべき名としては、たったひとつの御名より他にない」とあります。その御名とは、エホバでしょうか?ミカエルでしょうか?それとも・・・・・

あなたの聖書には、どのようなお名前が書いてありますか?

>神に是認された唯一の組織? 3

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ものみの塔にお尋ねします

神に是認された唯一の組織? 3

藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊

17. 不遜にもエホバの御名をみだりに用いて、ハルマゲドンについての間違った情報を、エホバの証人の方々に伝えたものみの塔組織は、それ以外のことでも、間違いを教える可能性があると考えてはいけないのでしょうか。もし、可能性がないとおっしゃるならその根拠はなんですか。

ものみの塔組織独自の、ひとりよがりな独断的主張以外にあれば、教えて下さい。エホバの証人(ものみの塔の犠牲者)の数が増えていることは、その根拠にはなりえません。実際、世界的にみて、同姓愛好者も、占いや、霊ばいに伺いをたてる人も、数的には祝福されているようにみえますが、彼等が人々を誤りに導く可能性は大きいということには同意していただけることと思います。

18. ハルマゲドンの時についての間違い以外にも、ものみの塔組織が、聖書を誤って教えたり、他の神学者の著作や百科事典などを、非倫理的かつ、不正な方法で引用している事実などが、明らかにされているのですが、それらを御自分で確かめてみたいと思われませんか。 (この質問はものみの塔にではなく、エホバの証人の方、個人にお尋ねします。 )

19. ものみd)塔組織は、預言が外れたことを正当化しようとして、ヨットが風上へ進む時のタッキングを例に出し、偽頭言の修正やつじつま合わせを説明していますね。すなわち、方向は間違っていないが、逆風を利用して進む為に、軌道修正したと言っておられるのでしょうか。

20. これは、聖書のハルマゲドンの時をエホバ神から直接聞き、エレミヤやヨハネ級の預言者として諸国民に警告を発することの例話として用いるのには、大変無理があるように思えるのですか、いかがでしょうか。

21. と申しますのは、ハルマゲドンの時の予告はヨットが行き着くゴールなのであって、途中の風圧を受け、それを逆利用して進む途中の進行過程の描写としては、不適切だからです。そのメッセージは具体的な年代設定でした。

22. むしろその例話は、間違った預言をエホバの名において不遜にも語った偽預言者が、石打ちの死刑という風圧を逃れるため、もがき、あがきながら左右に逃げ回っている姿ととれないでしょうか。そしてまた、その逆境の風圧を、人為的なごまかしと、理由づけで逆利用し、組織を拡大し続け、前進しているものみの塔組織の姿をよく描写している、うまく作り上げた例話と見ることはできないでしょうか。

23. エホバの証人の皆さんは、 「私たちも人間だから、時には間違いをおかしても当然ではないですか。」とおっしゃいますね。本当にその通りです。それには異議はありません。でも、そのエホバの証人の皆さんを教え導く、神の霊感を受けてエホバ神の御名によって語る、ものみの塔組織の「忠実で思慮深い奴隷」はどうなのでしょうか。もう一度、申命記18章19~22節を読んでみて下さい。

24. もし、正確なハルマゲドンの時を予言することが誤りであるという、他のキリスト教会と同じ立場に、現在はものみの塔の皆さんも立っておられるというのでしたら、よくお考えになってから次の質問にお答え下さい。

それでは、あなたがたは、何の目的で高い塔、ものみの塔の上に上がっておられるのですか。 何を見張っておられるのですか。そして私たちに、一般のキリスト教会が警告することのできない、何を警告してくださるのですか。