月別アーカイブ: 6月 2008

>健康だった老夫婦

>結婚六十周年を迎えんとする八十五歳になる老夫婦がおりましたが、ある日、交通事故に遭い二人とも死んでしまいました。死ぬ十年前の老夫婦の健康はいたって健やかでした。というのもみなこれ奥さんの自然健康食品や適度な運動への関心のおかげでした。二人が天国の門の前まで来たとき、聖ペテロが二人のために用意された大邸宅まで案内してくれました。そこには美しいキッチンとサウナや泡風呂の完備された浴室がありました。二人は、「わぁ~、」とか「あらまぁ~」とか感嘆しておりました。そこで夫の方がペテロにこう尋ねました。「あの~それでここにすむにはおいくらぐらいかかるんで?」

「ただです!」とペテロは答えました。「ここは、天国ですから。」

翌日、二人は、外に出てゴルフのチャンピオンシップコースを見学しました。毎日でもゴルフができるということで、また、毎週ゴルフコースが新しくされ、世界一のゴルフ場のようでした。男性はこう尋ねました。「プレイするにはいくらかかりますか?」

ペテロはこう答えました。「ここは天国ですから、ただでプレイできますよ。」

次の日、二人はクラブハウスに出かけました。そして、見たこともない世界中からのグルメばかりの食事、しかも食べ放題というお料理の準備が整っているのを見ました。
「あの~これはおいくらで食べられるんでしょうか?」そう老人は尋ねました。

「あなた、まだおわかりにならないんですか。」「ここは、天国ですよ。みんなただですよ。」ペテロは、少しいらだった様子で答えました。

「あの~、ローファットやコレステロールの低い食べ物はどのセクションにありますんでしょうか」おそるおそる老人は尋ねました。

ペテロはこう老人に教え諭しました。「よくぞ聞かれました。ここがすばらしいところなんです。あなた、何を食べてももう体重を心配する必要などないのです。病気になることはもうないのですから。ここは天国なんです。」

これを聞いて、老人はかぶっていた帽子を床に投げ捨てて、足で踏みつけ、叫び声をあげたのです。ペテロと奥さんは何とか老人を落ち着かせようと懸命でした。そして、いったいどうしたのかと老人に問いました。

老人は、奥さんを見て、こういいました。
「みんなおまえが悪いんだぞ。おまえのあのまずい、もみ殻入りのマッフィンなんかたべさせられたおかげで・・・ここにくるのが十年も遅くなってしまったんだぞ。」

                               訳:池田 豊
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しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」1コリント1:27~2:9
 
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。           ヨハネ3:3~18

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An eighty-five-year-old couple, married for almost sixty years, died in
a car crash. They had been in good health the last ten years, mainly as
a result of her interest in health food and exercise. When they reached
the Pearly Gates, St. Peter took them to their mansion, which was decked
out with a beautiful kitchen and a master bath suite with a sauna and
Jacuzzi. As they "oohed and aahed" the old man asked Peter how much all
this was going to cost.

"It’s free," Peter replied. "This is heaven."

Next they went out back to survey the championship golf course that the home backed up to. They would have golfing privileges every day, and each week the course would change to new one that represented one of the great golf courses on Earth. The old man asked, "What are the green fees?"

Peter’s reply: "This is heaven; you play for free."

Next they went to the clubhouse and saw the lavish buffet lunch with the cuisines of the world laid out. "How much to eat?" asked the old man.

"Don’t you understand yet? This is heaven; it is free!" Peter replied with some exasperation.

"Well, where are the low-fat and low-cholesterol tables?" the old man asked timidly.

Peter lectured, "That’s the best part: You can eat as much as you like of whatever you like and you never get fat and you never get sick. This is heaven."

With that, the old man threw down his hat, stomped on it, and shrieked wildly. Peter and his wife both tried to calm him down, asking him what was wrong.

The old man looked at his wife and said, "This is all your fault. If it weren’t for your blasted bran muffins, I could have been here ten years ago!"

>Who failed the math?

>

数学の単位落としたのいったい誰だったの?

あるフットボールチームのコーチが、試合前に、ロッカールームに入ってきました。そして、一番人気者のスター選手に目をとめ、こう言いました。
「おい、お前は、数学の単位を落としちゃったからな、この試合には出場させることができん。
だがな、算数の問題を一問だけ、答えるチャンスをやろう。正解を言うことができたら、試合に出してやることにしよう。」

スター選手は、「よろしくお願いします。」と言いました。
そこでコーチは、彼の目をじっと見つめて、こう問題を出しました。
「いいか。しっかり集中して聞くんだぞ。そして答えてみろよ。・・・
さあ、2たす2は、何だっ?」

しばらく考えた後、「4です。」と答えが返ってきました。

「お前、4と答えたのか?」
コーチは叫びました。
スター選手が、正しい答えを言うことができたので、興奮したのでした。

そうしましたらね、
突然、他の選手たち、み~んなが、こう叫び出しました。

「いいじゃないですか。ね、コーチ。
あいつにもう一回、質問に答えるチャンスを与えてやってくださいよ!」

                                         訳:池田 豊

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Who failed the math?

A football coach walked into the locker room before a game, looked over to his star player and said, "I’m not supposed to let you play since you failed math, but we need you in there. So, what I have to do is ask you a math question, and if you get it right, you can play."

The player agreed, so coach looked into his eyes intently and asked, "Okay, now concentrate hard and tell me the answer to this. What is two plus two?"

The player thought for a moment and then answered, "4?"

"Did you say 4?" the coach exclaimed, excited that he had got it right.

Suddenly all the other players on the team began screaming, "Come on coach, give him another chance!"

>Yes I found one!

>

「せっかく理想の女性が見つかったというのに・・・」

ジミーくんは、もうじき29歳になります。友達はもうみんな結婚しているのですが、ジミーくんはといえば、妻になってくれそうな女性を捜して、デートを繰り返すばかりでありました。

ついに見かねて友人の一人がこう言いました。「いったいどうしたっていうんだい。完璧で理想的な女性を見つけようってのかい。なんでそんな選り好みばかりしてるんだ。自分にあったほどほどの娘さんでいいんじゃないかい。」

「いいや、違うんだ。」とジミーくん。「ぼくには素敵な女性と思える人たちばかりなんだよ。でもね。その娘を家に連れてきて、両親に紹介するとね、ボクの母さんが、この娘はだめだって言うんだよ。だから次から次とより母のおめがねにかなう人を求めてデートし続けなきゃなんないんだよ。」

そこでこの友人は、ジミーくんにアドバイスを一言
「いいかい。だったら、君のおっかさんとよく似た女性を見つけてきたら?」

さてそれから何週間か後のことです。ジミーくんはその友人とまた会いました。「おいジミー。理想の女性がみつかったかい。君のおふくろさんそっくりの・・・」

ジミーくん、肩をすぼめて曰く、「ああ、ぼくのかあさんそっくりの女性がいたよ。母さんことのほかこの娘を気に入ってくれてね、二人はとっても意気投合していたよ。」

「そりゃよかった。それで婚約はしたのかい?」

「ところがね、それがだめなんだよ。今度は、うちの父さんが、こんな娘、がまんならないんだとさ。」

                                      訳 池田 豊

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Yes I found one!

Jimmy is almost 29 years old, his friends have already gotten married, and Jimmy just dates and dates.

Finally a friend asks him, "What’s the matter, are you looking for the perfect woman? Are you that particular? Can’t you find anyone who suits you?"

"No," Jimmy replies. "I meet many nice girls, but as soon as I bring them home to meet my parents, my Mother doesn’t like them. So I keep on looking!"

"Listen," his friend suggests, "Why don’t you find a girl who’s just like your dear old Mother?"

Many weeks go by and again Jimmy and his friend get together. "So, Jimmy, did you find the perfect girl yet? One that’s just like your Mother?"

Jimmy shrugs his shoulders, "Yes I found one just like Mom. My Mother loved her, they quickly became friends."

"Are you and this girl engaged, yet?"

"I’m afraid not, my Father can’t stand her!"

>Gas Station

>ガソリンスタンド
クリントン元大統領とヒラリー夫人が故郷のアーカンソー州に戻って一緒に車で走っていました。
あるガソリンスタンドで止まって、給油をしたんです。
そしたら、たまたまそこで働いていた店員が、ヒラリー の昔のボーイフレンドだった。
「ねぇ、ハニー、僕と結婚してよかっただろう。君が僕と ではなく、あの男と結婚していたら、君は今でもここアーカンソーのガソリンスタンドで、給油する仕事をしていただろうからね」とビルが夫人に言った。
ヒラリー 夫人はピシャリと言い返した。
「それは違うわね。もし私があなたと結婚しなかったら、ここで給油しているのはあなただったわよ。」

訳: 池田 豊
※お願い
念のために申し上げますが・・・これは、英語のジョークを訳したものです。作り話であり、本当の出来事ではありませんので、本気にしないでね。
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Gas Station
The Former President Bill Clinton and his wife, Hilary was driving in their home country, Arkansas. They stopped at a gas station. The attendant at the gas station happened to be Hillary’s old boy friend.
“Honey, you should be very happy to have married me. If you had married that guy, you could be still here in Arkansas and pumping gas,” Bill said.
Hilary snapped, “You are wrong. If I hadn’t married you, you would be the one pumping gas here.”

>梅野さんからのお手紙

>1992年(平成4年)11月に当時、藤沢福音自由教会で牧師としてご奉仕していた私のところに、見知らぬ方から一通の手紙が送られてきました。このブログでは、この方のご本名とご住所は伏せて、仮名と架空の住所を用いてご紹介したいと思います。内容は、イエス・キリストの教えに関して、真意が誤解されて伝わっているので、たださなければならないというご主張と共に、この方の主張に賛同し、その内容を広く伝えたいという人は、連絡してほしいというものでした。私は、一読して、私が聖書から理解している、主イエスキリストの教えと、封書を送られた方のご主張があまりにも違うものでしたので、即、ご返事を書いて郵送しました。それに対してのご返事は、いまだにいただいておりませんが、この方がご自分の信じるところを広く、多くの人に伝えたいという情熱をお持ちの方ですし、お手紙を受け取った私は、それが、聖書の伝える真理を正しく表現していないと確信していますので、ブログに両方の意見を掲載して、ご覧くださる皆様のご判断にゆだねたいと思います。

梅野(仮名)さんからのお手紙  
※文中に挿入されたローマ数字は、私がご返事を書く際に言及するため便宜上つけたものです。
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イエス・キリスト様の真意を伝えんが為に

 見ず知らずの者が、突然お手紙をお出ししてすみません。そのご無礼を最初にお詫び申し上げます。私はこのメッセージを、これだけはお伝えしなくてはという込み上げてくる内なる衝動に従って書かせて頂くことに致しました。

 早速本題に入らせて頂きますが、約二千年前に、イエス・キリスト様によって宣べ伝えられた神様からの真理の教えの多くは、今日、その真意が理解されずに伝えられているように見受けられます。このことは誠に遺憾であり、今の今こそ、その過ちが認識され、真意が回復されなければなりません。

 イエス・キリスト様は、私達とは全く異質の私達の決して及ぶことの出来ない特別な雲の上の人としてお生まれになったのではありません。イエス・キリスト様は、私達一人一人が、父なる神様との関係において、イエス・キリスト様と父なる神様がそうであったところの正にその同一の関係に私達を導き入れんが為にお生まれになったのです。イエス・キリスト様の教えは、その為の道そのものなのであります。(I)

 従いまして、その道とはイエス・キリスト様だけでなく、私達の誰もがイエス・キリスト様のように、神の子となる道であると言うことができます。

 神様は、私達から遠く離れた外界の天空高い所にある、ある特別な場所だけにいらっしゃるのではなく、私達の手足よりも身近な所である私達一人一人の内にもおられ、そこから常に私達に働きかけておられるのです。そして、そのみ心を行うようにと常に促しているのです。それは、私達が神様のみ心を行うことにより、イエス・キリスト様のように、神様の賜る大いなる栄光に浴するためであります。このことは、私達にとって何と有り難いことでしょうか。

 そのような私達を心から愛しておられる神さまが、私たちを罪に定めるようなことがあるはずがありません。(II-A)  私たちには、元来、罪はなかったのです。(II-B)  神の子としての本当の生き方を知らない私達が、神様のみ心に反した生き方をした分だけ、元来無かったはずの罪が生み出されたのです。ですから、もし私達が、神の子としての本当の姿を知り、行いを正し、神のみ心にかなった生き方を始めれば、罪は跡形も無く消え去るのです。(II-C)   

 神様のみ心から迷い出た私達が造り出してしまった罪をあまりにも強調しすぎることは、私達を、元来存在するはずもない罪に、堅く縛りつけることになってしまいます。

 さて、イエス・キリスト様の教えの中で私達の多くが罪の場合と同じように強調してきたものに、悪魔(サタン)の存在があります。ところで、神様についてよくよく考えてみたいと思います。神様は、全知全能であられ、自らこの世をお造りになり、どこにでも遍在されております。そうしますとこの宇宙で神様のいらっしゃらない所はどこにもございません。もし、神様と共に、悪魔(サタン)が存在するとすれば、神様の遍在性は失われ、(III-A)  又、それと同時にその全能性も失われてしまいます。(III-B)  これでは真理に矛盾をきたしてしまいます。

 悪魔(サタン)とは、どこにでも遍在され万物を通して御身を現わされている神様が、私達一人一人が神の子としてイエス・キリスト様の歩まれたような神様のみ心を行いゆく道を歩んでいく上で、五感の誘惑に打ち勝たんが為に、そして、私達の内を通して働いておられる神様の勝利のラッパを吹き鳴らさんが為に設けられたものなのです。悪魔(サタン)とは、私達を神の子としての正道から踏み外させんとする五感の惑わしのことであり、(III-C)  それを克服し、内を通して働きたまう神様の勝利を宣言した時に、私達の元から消え去るべく定められているものです。私達の多くは、罪と同様、あまりにも悪魔(サタン)の存在とその私達に及ぼしうる力を強調するあまり、それが神様と対立して厳然と存在するかのような幻想に捕らわれてしまっています。神の子として真実を見抜く目を養う為にも、私達は一刻も早く、このような架空の幻想を捨て去らなくてはなりません。(III-D)

 ところで幻想と申しますと、私達の抱きやすいものがもうひとつあります。それは天のみ国に対するものであります。天のみ国とは、外界のはるかかなたに存在しているものではなく、私達の内にあるのです。このことは聖書の中ではっきりと示されています。(IV)  ですから、私達が神の子として神様のみ心にかなった生き方を始めるならば、天のみ国、すなわち神の国の住者となるわけです。

 しかし、私達の多くは、この確固たる自覚を持っていません。神様も天のみ国も、天空はるかかなたに在り肉体の死後、あるいは、ある一定期間経過した後に、イエス・キリスト様のみ力によりて入れて戴けるものと思っているのです。神様も天のみ国も、天空はるかかなたに在り肉体の死後、あるいは、ある一定期間経過した後に、イエス・キリストのみ力によりて、入れて戴けるものと思っているのです。神様も天のみ国も私達のまっただ中にあり、私達は今の今、天のみ国の住者となれるのであるということをよくよく認識すべきであります。

 最後になりますが、イエス・キリスト様の宣べ伝えられた教えの中で最大のかなめとも言える永遠の生命に触れて、筆を置かせて頂きます。

 イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様と同じように神の子としての道を歩む者に対して、永遠の生命を約束されました。(V-A)  他に並ぶべきものなど何ひとつないほど素晴らしきこの永遠の生命ですが、これは、私達が未来のいつの日か授かるものではないのであるということを悟得することは、非常に重要なことであります。

 もし、私達に今、このような永遠の生命が与えられておらず、将来のいつの日にか与えられるものであれば、それは取るに足りないものになってしまいます。自分の内に元来備わっていないものは、いずれは失われてしまうものであり、求める価値に値しないものであるからです。真実は違うのです。私達は誰でも、永遠の生命の種子を、私達の内に今、現在宿しているのです。ところが、残念なことに、五感の惑わしや、罪の意識によりそれを覆い隠してしまっていて、その存在に全く気付かないままでいるのです。しかし、希望はあります。私達が、イエス・キリスト様の歩まれたように神の子としての自覚をしっかりと持ち、(V-B) 内を通して働きたまう神様のみ心のまま、道を歩んでいくならば、(V-C) 五感の惑わしも、元来存在すべく定められていなかった罪の意識もことごとく消え去り、(V-D) 確固とした永遠の生命の自覚がおのずと現れてくるからです。(V-E) この輝かしき自覚は、私達の肉体の死が私達の生命の中断を意味せず、私達の生命にいかなる影響も及ぼすことができないのであるという確信を与えてくれます。私達には、恐れるべきものは何もありません。この肉体の死でさえ、恐れるに足るものではないのです。(V-F)

 今日、二千年前にイエス・キリスト様がこの地上に誕生されて、自らの人生のすべてを父なる神様に捧げ尽くすことによって、そのみ力により宣べ伝えられた尊きみ教えの真意が、私達一人一人によって深く理解されることを念願してやみません。

 主のご祝福が、このメッセージを読まれるかたにとこしえにあらんことを 
                           アーメン

          平成4年11月15日 午前11時 自宅にて

 当メッセージに盛り込まれているイエス・キリスト様の真意に賛同してくださり、自らもその普及にご尽力したいとお考えの方は、お手数ですが、下記までご連絡ください。

[連絡先(仮名と架空の住所、電話番号)]  
                          〒244 横浜市戸塚区舞岡町 9876-1-012
                                           梅野 弘二
                                            ℡ 045-888-1225

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梅野さんへのご返事

 主イエス・キリストの十字架の御業を讃美申し上げます。
 このたびは、梅野さんの熱心な求道、探究の結果である「イエス・キリスト様の真意を伝えんが為に」を私のところへもお送りくださいましてありがとうございました。内側から込み上げてくる情熱をもってお書きくださり、心より尊敬申し上げます。

 さて、梅野さんが私にぜひ知ってほしいとおっしゃる点を誤解のないように、まず要約させていただき、私たちが聖書から教えられていますことを述べさせていただき、私のご返事といたします。

梅野さんのご主旨

  Ⅰ. 道について
   イエス・キリスト様の教えは道そのものである。

 Ⅱ. 罪について
  A. 愛の神が私たちを罪に定めるはずがない。
  B. 私たちには元来罪はなかった。
  C. 人間は、神の子としての本来の姿を知り、行いを正し、神のみ心にかなった生き方をはじめるなら罪は跡形も無く消え去る。

Ⅲ. サタンについて
  A. 悪魔の実在を認めると神の遍在性が失われる。
  B. 悪魔の実在を認めると神の全能性も失われる。
  C. 悪魔とは、私たちの五感の惑わしのことである。
  D. 真実を見抜く目を養うため、悪魔の存在などという幻想は捨て去らなければならない。

 Ⅳ. 天の御国について
   天の御国は私達の内にある。

 Ⅴ. 永遠のいのちについて
      A.イエス様と同じように神の子としての道を歩む者にイエス・キリスト様は永遠のいのちを約束された。
      B.イエス様のように私達も神の子としての自覚をもつべきだ。
      C.内に働かれる神のみ心のままに道を歩むべきだ。
      D.そうすれば五感の惑わしや、本来ありはしない罪の意識はことごとく消え去る。
      E.確固とした永遠のいのちの自覚はおのずと現れてくる。
      F.私達には恐るべきものは何もない。

 以上のような要約で梅野さんのご主張をまとめさせていただいてよろしいでしょうか。もし私の誤解している点がありましたらご指摘ください。 

 次に私が聖書の御言葉から、真理であると信じております点から梅野さんのご指摘くださっている一つ一つの項目をみさせていただき私のご返事とさせていただきます。

  I. 道について
    私の聖書ではイエス・キリスト様の教えが道だとは書いてございません。
  ヨハネ14:6でイエス様は、「私が道であり、真理であり、命なのです」とおっしゃったのです。

 太平洋でおぼれている泳げないカナヅチの人がいるとしましょう。この人にとって命の恩人(救い主)とはどのような人のことをいうのでしょうか。

 一人の人がボートに乗ってやって来ました。フトコロから「あなたも三分間で必ず泳げるようになる」という本をとり出し、ポイとおぼれている人めがけ投げてやりました。このような人を梅野さんは命の恩人と呼びますか?この人は泳ぎ方の方法を教える教師と言えるかもしれませんが救い主とはいえませんね・・・

 イエス・キリストも確かにすばらしい教師であられました。  キリストの教えに何か間違いがあったわけではありません、教えどおりに手足を動かせない私達に問題があるのです。

 丁度泳げない人にとって泳ぐ方法を教えた教本を投げ入れてもらってもその人が泳げなかったのと同じです。

 私達に必要なのは救い主(命の恩人)であって、良い教えではありません。
 以下の聖書のことばを声に出してお読みになってみてください。    
ローマ5:6~8
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ローマ4:4~5   
働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ヨハネ10:9,11
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

また、ルカ23:33~43までをお読みください。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 ここに十字架につけられた犯罪人が二人イエス様の両側に登場しています。一人は滅びに行き一人は救われました。

 このパラダイスを約束された犯罪人は「イエス様の教えを聞き、生活の中で実践できたからごほうびとして永遠の命の自覚がめばえたのだ」と書いてありますでしょうか?彼は自分の罪深さを本来なかったものと自覚したのではなく実際自分の手におえない責任のとりようもないものとして認めたのではないでしょうか。

 自分の罪を認め、次にイエス様の無罪性に望みをたくし、イエス様こんな私ですがよろしくお願いしますという気持ちで、「私を思い出して下さい」と言ったのではないかと私は考えます。その時、イエス様は彼に何とおっしゃったのですか、「あーぁ、もう少し早く気づけばよかったのにな、もう遅いよ、おまえの人生はやり直しがまだきく時に五感の惑わしを克服し、神のみ心を生活の中で実践すべきだったね、残念でした」と本当におっしゃったのでしょうか。 

 私の聖書では、イエス様は彼に天のパラダイスの約束をプレゼントとして、彼の信仰に応答するかたちで与えられたように書いてあります。すなわちこの犯罪人は、イエス様が教えた道徳的なルールを守るということとは無関係に、イエス様ご自身を信じ、命の恩人として受け入れたことのみをもって救われたのです。

 私もイエス・キリストを単に教師としてでなく、救い主(命の恩人として)信じたので救われました。

 II. 罪について
    A. 愛の神が私達を罪に定めるはずがない?
    確かに神は愛のお方です。ですから私達を罪に定めるはずがないというのも一理あります。
   わたしたちの罪が裁かれなければならなかったのだということも神が聖なる義なるお方としては当然のことだと私はうけとめています。
   この神の義が満足されるために私が本来受けなければならなかったところの罪の罰をイエス・キリスト様が身代わりとなって受け十字架で血を流し、つぐないをなしとげてくださったのだと私の聖書は教えています。

ローマ3:23   
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ローマ6:23   
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

詩篇19:9   
主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

ヘブル9:27   
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

コリント第二5:18~21
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

    B. 私達には元来罪はなかった?
     私達には元来罪はなかったと梅野さんはおっしゃいますが、おそらく梅野さんが罪という単語で表現していらっしゃることと、聖書が罪とよんでいるところのものとは、全然違うものなのかもしれません。
     聖書は私達人間には罪があることを教えています。
    リンゴの木はリンゴの実を実らせたのでリンゴの木になったのではなく、リンゴの木は実が実る前からリンゴの木だったので、リンゴの実を結ぶのだと私は考えます。すなわち人間は五感の惑わしを経験したから、罪びとになったというのではなく、最初から六感をも含めてアダムが罪を犯したため、その子孫は、すべて罪人としてゆがみをもったまま生まれて来るのだと聖書は教えています。

     人は罪人であるが故に感覚においてもゆがみをもっており結果として五感の惑わしも受け罪の現実の実を結ぶのだと聖書は伝えています。  

詩篇51:5
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

ローマ5:12~21
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

    C. 人間は、神の子としての本来の姿を知り、行いを正し、神のみ心にかなった生き方をはじめるなら罪は跡形もなく消え去る?)
    罪の解決はどのようにしてもたらされるのかということについてですが、梅野さんのお考えでは、
     ① 神の子としての本当の姿を知ること
   ② 行いを正し
   ③ み心にかなった生き方をはじめれば
   ④ 罪は跡形もなく消える
ということですが、聖書はそのように教えていません。

   まず、すべての人間は"神の子"ではありません。         
すべての人間はイエス・キリストによって創造された「被造物」ではあっても、「神の子」ではないのです。

    聖書によると「神の子」とさせていただくのは特権であります。ヨハネ1:12をお読みください。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

   この方とはイエス・キリスト様のことです。ここでもイエス・キリストの教えを信じ、従った者はとは書いてありません。そうではなく、「この方を受け入れた人」と書いてあります。すなわちその名を信じた人と言い換え意味を明白にしています。イエス・キリストの名とはわかりやすく申しますと、イエスは救い主であるということです。私達の理解しやすい表現を用いるなら、イエス様は永遠の命の恩人であられるということです。そして「神の子」としていただけるのは特権であり、神のプレゼントなのです。
   13節にこの「神の子」という立場は、梅野さんがおっしゃるように、
   ① 自然に誕生した者は皆、神の子であるとか
   ② 人間の努力や、意欲に対するごほうびとしてもらえるものだとか、いうものでは決してないと説明されています。
    
   梅野さんは、行ないを正し、み心にかなった生活をすればとおっしゃいますが、人間の神に対する反抗的態度の具体的な罪のうち何%を正したら十分なのですか?
   次に、もし梅野さんがとても立派な方で100%罪を犯さない決心をなさってそれができたとしましょう。でもその状態が何分間続けられたら十分なのですか?
   罪は跡形もなく消えるとおっしゃいますが、人間が人間を見た場合、そのようなことがあったとしても天の義なる神様の前でそうなれるでしょうか、罪とはそんなに簡単な、私達の手におえるようなもののことを指しているのでしょうか? 

ヨハネ第一の手紙1:8、10をご覧ください。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

ガラテヤ3:10~11,2:16をご覧ください。 
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。

しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

    私達の罪は私達がどんなに歯をくいしばってみても自分の意志の力や努力では解決できるものでも、消滅するものでもないというのが聖書の教えです。

イザヤ書64:6
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

エレミヤ13:23。
クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。

   私達に必要なのは、罪の生活改善や変化ではなく、罪の赦しと救い主です。

III. 悪魔について
    A. 悪魔の実在を認めると神の遍在性が失われる?
       悪魔の存在を認めると、神さまの遍在性が失われるというご指摘ですが、私たちは、神が時と空間に支配されないお方であると認めますが、悪魔を遍在する者としてはとらえません。聖書は悪魔について決してそのようには教えていません。サタンは、デーモン(悪霊)という手下を地球上に多く配置してはいますが、サタン(悪魔)そのものは、同じ時に、一つの場所にしかいることできません。従って、悪魔の存在と神の遍在性との間には何の関係もないということになります。

    B. 悪魔の実在を認めると神の全能性も失われる?
       以上のことからも、悪魔は、その能力においても神に敵対できる存在ではありません。神に反逆したため、悪魔は滅ぼされる運命にあるものです。神の全能性と悪魔の実在は全く矛盾など致しません。
       おそらく、梅野さんが、幻想と呼び、非難していらっしゃるのは、聖書の教える、又、キリスト教徒が信じているところの悪魔観ではなく、道教の影響を受けた善悪二元論的悪魔観なのではありませんか。イエス様も悪魔を人格的存在として、霊的被造物である天使のひとり、ルシファーが堕落したものとしてお取り扱いになっておられます。
   「使徒の働き」の中でも、悪霊どもは、イエス・キリストの御名と十字架の血潮、死からのよみがえり、に反対し、イエス・キリストの御名によって追い出されています。そしてこれは、現実の歴史的記録なのです。

    C. 悪魔とは、私たちの五感の惑わしのことである?
       悪魔(サタン)とは、私たちを神の子としての正道から踏みはずさせんとする五感の惑わしのことだと梅野さんはおっしゃるのですが、そのことを明確に教えている聖書の聖句はありますか? ヤコブ4:1~3には、私たちの欲望や、悪い動機が、争いの原因だという教えはありますが、欲望や悪い動機そのものが悪魔なのではありません。

ヤコブ4:1~3
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

悪魔がそれらを利用することがあっても、欲望そのものがサタンではありません。もし、欲望がサタンであるという仮説が真理ならば、梅野さんの心の内には、神の子も、サタンも同居していることになります。それこそ矛盾と感じられませんか?サタンは遍在する者ではありません。

   又、神さまが遍在のお方であるということは、汎神論の意味での、すべてに神が宿っておられるというような意味とは、著しく違うのです。梅野さんの御主張のIII-Aで、遍在という用語を神に対して用いていらっしゃる時は、キリスト教的な遍在という意味よりは、汎神論的な意味、即ち、神々が万物に宿っておられるというような意味で、お用いになっておられるようですね。

   D. 真実を見抜く目を養うためには、悪魔の存在などという幻想は、捨て去られなければならない?
     神の子として真実を見抜く目を養うために必要なのは、サタンの存在を無視すること、サタンなど幻想だと片付けることだと梅野さんはおっしゃるのですが、聖書は、はっきりとサタンの実在、そして彼の惑わしのテクニックがあるので、騙されぬよう、目を覚ましていなさいと教えているのです。

2コリント11:14
しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

エペソ6:11-12  
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

ヤコブ4:6-7  
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

1ペテロ5:8-9
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

   サタンが、人間の五感の惑わしにすぎないと、思い込まされ、サタンの実在を信じないようにさせられてしまうこと自体が、サタンの嘘であり、惑わしなのです。

 IV. 天の御国について
     天の御国が私たちの内にあるというのが梅野さんの御主張ですね。しかも、「このことは、聖書の中ではっきりと示されています。」と梅野さんはおっしゃいます。聖書のどこの何章何節にそのことがはっきり書かれてありますか?教えていただけませんでしょうか。

     多くの方々が、よく間違って解釈なさる聖句にルカ17:20-21があります。この「神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」というεντοs   υμων(エントス ヒュモン)を人の内側、心の中というように誤解する人がおられますが、イエス様は、ここで神の国が私たちの心の中にあるとおっしゃられたのでは決してありません。英語の訳で見れば、神の国が within you 又は、within your heartだというのではなく、in your midst というのがイエス様のおっしゃられた意味です。直訳すれば、 "the kingdom of God in the midst of you" というのが正しい訳なのです。

     パリサイ人たちの間に(in the midst)立っておられたイエス・キリストがイスラエルの王様としてお出でになられたお方であったので、彼らが、イエス様を王として受け入れたならば、イスラエルの王国が樹立するということを主はおっしゃられたのです。しかし、パリサイ人たちは、イエス様を王として受け入れず、拒絶したため、御国の成立は引き延ばされてしまったのです。

ルカ17:25
しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。    

   神の御国は、主イエス・キリストが再臨される時、イスラエルのエルサレムを首都とする千年間に渡る王国が樹立し、御国は現実のものとなります。心の気休めや、「あると思えばある。無いと思えば無い。」というような唯心論的観点から、聖書は「神の国」を説いてはおりません。

  V. 永遠のいのちについて
    A. イエス様と同じように神の子としての道を歩むものに、イエス・キリスト様は、永遠のいのちを約束された?
       聖書は、永遠のいのちが、イエス様の模範に従い、神の子としての道を歩むならば、ご褒美としていただけるものだなどとは、決して教えておりません。
ヨハネ5:39-40
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

ローマ3:23-24
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を(ご褒美としては)受けることができず、ただ、神の恵み(創造主の一方的な気前よさ)のゆえに、価なしに(無料のプレゼントとして)義と認められるのです。(一度も罪を犯したことが無いかのように宣言していただけるのです。)

ローマ6:23
罪から来る報酬(報い、ご褒美)は死です。しかし、神のくださる賜物(ギフト、贈り物、プレゼント)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

   B. 私たちもイエス様のように「神の子」としての自覚を持つべきだ。そうしたら私たちも永遠のいのちが与えられる?

        イエス様が「神の御子」であられたのと同じような自覚を人間がいだくことによって永遠のいのちが与えられるということを教えている聖句はありません。梅野さんのお持ちの聖書で、そのようなことが明確に教えられている聖句がありましたら教えてください。

     C. 内に働かれる神のみ心のまま道を歩むべきだ。そうしたら私たちも永遠のいのちが与えられる?

        神のみ心にかなった行いや生活をすることができたら、そのご褒美として永遠のいのちが与えられるというのも間違いです。完全に神のみ心に従う生活は不可能だからです。ヨハネ6:28-29を見ますと、神の業を行うために何をしたらよいかとの質問に対し、主は、「わたしを信じる」ことだと言われました。

ヨハネ6:28-29
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

ちょうど、十字架上の犯罪人のひとりも、この「神の業」、即ち、「イエス・キリストを永遠のいのちの恩人として信じ受け入れる」ことのみによって、パラダイスを約束していただき、永遠のいのちをプレゼントとして頂戴することができたのです。永遠のいのちが、私たちの良い行いや、義の業に対する報いではなくて、一方的な創造主の愛と恵み(気前よさ)のゆえに与えられるプレゼントであることは以下の聖句も明確に教えている真理です。

エペソ2:8-9  
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

テトス3:5  
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

使徒10:43; 13:38-39
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

   D. 「そうすれば、五感の惑わしや、本来ありはしない、罪の意識はことごとく消え去る」という梅野さんの御主張について

        人間の性善説を信じ、神のみ心に従って良い生活を続ければ、五感の惑わしや、罪意識もなくなるというのが梅野さんの御主張であり、このことは大変重要であり、必要だとおっしゃっておられます。しかし、このことも聖書の中には全く教えられていない事です。逆に、先ほども申し上げましたことですが、「自分は罪を犯していない」と思うほど高慢になった人は、神の真理の光で自分の心を照らしてみることを拒否している人であることを次の聖句は明確に教えているのです。

1ヨハネ1:7-8
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

   E. 確固とした永遠のいのちの自覚はおのずと現れてくるという梅野さんの御主張について

        永遠のいのちの自覚がおのずと現れてくるというような教えも聖書の中には見あたりません。永遠のいのちは、バーゲンセール(人間の良い行いと引きかえに買うもの)ではなく、イエスキリスト様からのプレゼントです。ですから、それを受け取った人は、持っていますし、まだ、自分のこととして受け入れていない人は、持っていません。人類はこの二つのうちどちらかに分けることができるというのです。

1ヨハネ5:11-12
そのあかし(証言、真実を伝えるお知らせ)とは、神が私たちに永遠のいのちを与えられた(プレゼントしてくださった)ということ、そして、このいのちが御子(イエス・キリスト)のうちにあるということです。御子を持つ者(イエスキリストを救い主として信じ受け入れた人)はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

       永遠のいのちの自覚と確信とは、神の御言葉が真実であること、そして、イエス様の約束のお言葉が信用できるものであることのみにかかっているのです。私たちの神に従う生活の自負心から来る、高ぶりの結果として、おのずからくるといったようなものでは決してありません。

   F. 私たちには恐れるべきものは何もないという梅野さんの御主張について
       「私たちには恐れるべきものは無い」と梅野さんはおっしゃいますが、聖書には、イエス様のお言葉で、「肉体の死をもたらす者をいたずらに恐れるよりは、肉体も、魂の死をももたらすことのできるお方を恐れなさい」という真理が教えられています。マタイ10:28  そして、箴言1:7;  9:10には、人間が持つべき最初の知恵、知識は創造主を恐れるということであることが明確に教えられています。

箴言1:7
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

箴言9:10
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

    自分の義や正しさ、宗教熱心さに信頼を置き、誇っている人がいるとしたら、その人は、創造主を恐れるべきなのです。

ガラテヤ3:10
というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。 律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。

    けれども、イエス・キリストの十字架上でのお苦しみと流された血によって、私たちの罪は赦されるのです。イエス様を救い主、永遠のいのちの恩人として信じることによって罪赦され救われた人々は、死を恐れる必要はないのです。なぜなら、十字架で神のみ怒りはなだめられ、永遠のいのちがキリストの復活の故に無償で提供されているからです。私たちは、その永遠のいのちをプレゼントとして頂くことができるからです。

1コリント15:50-57  コロサイ2:13-14  ヨハネ3:16-18をお読みになってみて下さい。

1コリント15:50-57
血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

コロサイ2:13-14
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

ヨハネ3:16-18
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

    最初に話しました海でおぼれている人を救出する命の恩人についての話に戻りましょう。二つ目のボートが来て、乗っていた人は、海に飛び込みおぼれている人の前で、クロールやバタフライの模範を見せてくれたとしましょう。そして、彼は、「ホラ、こうやったら君も泳げるようになるよ。」と言いました。でも、おぼれている人は、夢中で手足をバタバタさせるだけで、水を飲むばかりでした。この二番目の人も自分だけボートに戻り、エンジンを吹かして去っていきました。梅野さん、このような人を救い主、命の恩人と呼べるでしょうか?

       イエスキリストを良い道を示してくれた教師、良い人生のお手本、模範として信じている方々は、世界中にたくさんおられます。確かにイエス・キリストは良い模範をたくさん残されました。キリストの模範に間違いはありません。しかし、その模範通りにできない私たちの側に問題があるのです。

       イエス・キリストは、良い教師や、良き模範であられただけでなく、「救い主」であられました。おぼれている人を抱きかかえ、ボートに乗せ、岸まで連れて来てくれる人を私たちは「命の恩人」と呼びます。

       梅野さん、梅野さんはもう、主イエス・キリストをご自分に代わって、救いを完成してくださった「永遠のいのちの恩人」として、100%信頼し、自分の正しさに見切りをつけ、創造主の御恵みだけにお委ねするというそのような契約を神と結んだ経験をお持ちでしょうか。もしまだでしたら、今、キリストを永遠のいのちの恩人、救い主としてお受け入れになり、キリストのみに信頼なさってください。

       この事に関し、私がもしお手伝いできますようでしたらおっしゃってください。主イエスキリストの御恵みをお祈りいたします。

                                                                                主にありて、

                                                                 敬愛する 梅野弘二 様

                                                                                    池田 豊

>The Gift of God

>


Music album

The Gift of God

 01The Gift of God 1

02Philp 4 6-7

03 1Peter 1 24-26

04Kenshin

08Psalm 34 4

09Proverbs 3 5-6

11Will It Be You

13The Gift of God 2

14Shalom With Love

Yutaka Ikeda
released through Florida Bible College in 1979

We have put some of the music from the album.

* Lyrics & Music composed by Yutaka Ikeda

Except 11 Will it be You? * Lyrics by Grace Schoettle

 

>行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは? (26)

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 ヤコブは「信仰は行いによって全うされた」という表現を用いています。この表現から「行いの伴わない信仰は不純であり、偽物だ」と結論づける人々がおられます。そのような主張をする人々は、良い行いがあらわれていない自称クリスチャンは、最初から救われてはいない、ニセクリスチャンだった証拠なのだと決めつけます。

 しかし、頭を冷やして考えると、じゃあ、本当に救われているクリスチャンの証拠となるような良い行いとは、どの程度のもので、どれほど長い期間観察されたら充分なのかと問い始めると、救いの絶対的保証を見極めるのは至難の業です。

 いやむしろ、誰にそのような決定権があると(創造主以外に)言えるのでしょう。だれもホントのところはわからないというなら、その論理をひっくり返せば、「誰が本当に『偽物のクリスチャンか』もホントのところはわからない」ということになりはしないでしょうか。

 そうだとすれば、人間の救いと、遺棄(創造主に見捨てられて、地獄に落とされること)は結局のところ、不完全で、不明瞭な自己満足や自己判断、あるいは、他者満足や他者判断にかかっているということになります。

 ヤコブが「信仰は行いによって全うされた」と表現したことの真の意味は、「成熟した」という意味なのです。実が実っている状態といって良いでしょう。

 畑にトマトの種や苗を植えたとします。実が実っていないときは、トマトではなくて、ピーマンなのですか?

 とんでもない。幼稚園の子供さんでもそんな愚かなことを言いません。じゃあニセトマトなのですか?

 絶対にそんなことはありません。

 実が実っていようといまいと、トマトはトマトです。ただ実が実っていないと人間のおなかを満足させるには、まだ役に立つ状態になっていないということを意味しているに過ぎません。ヤコブは、恵みのみによって救われたクリスチャンの信仰が、行いを通して現わされる時、実が実ったトマトのように、他の人々のお役に立つ、成熟した状態となるのですよと言いたかったのです。

>行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは? (25)

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 聖書の中で「義とされる」という概念が記されていますが、聖書の用法をみますと二つの場合があることがわかります。

A.人間の行いには無関係に信仰のみによって与えられる無償のプレゼントとしての義

B.人間の行いを通して信仰が表現される時に、報いとして与えられる義

Aの行いによらない信仰のみによる義とは、創造主の御前で、一度も罪をおかしたことのない者であるかのように見なしていただくことのできる立場が与えられることを意味しています。これは、創造主の一方的な、無条件の恵みで、天国の祝福の約束を伴ったものです。この義は、人の前ではなく、創造主の御前で義とされることを意味しています。

一方、Bの信者の信仰が行いを通して表現されることの報いとして与えられる義は、人の前で義とされることを扱ったものです。

「信仰プラス行い」によって創造主の御前で義を獲得し、罪の赦しを報いとして得ようとするのは、異端の教えです。これは、ヤコブ2:24の御言葉の誤った解釈が原因です。

Aの概念とBの概念は矛盾するものでは決してありません。その証拠にパウロもBの意味で義とされることを否定していません。ローマ4:2をご覧ください。

もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。 ローマ4:2

ヤコブもAの意味での義があることを否定しているのではないのです。

パウロは、創造主の御前で義とされることを強調し、ヤコブは、人々の前で義とされることも大切だと強調しているに過ぎません。ヤコブ2章の正しい解釈の鍵は、「見せてください。」「見せてあげます。」という表現にあります。

>行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは? (24)

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 「行いを伴わない信仰は、死んだも同然だ」という表現は、魂を失った人間の身体や、自動車を発進させることができなくなったバッテリーに例えることができることを前回学びました。このことは、ペットとして飼っている番犬について考えてみると、ヤコブの言わんとしたことをより一層理解する助けとなります。

 番犬として飼っている犬は、日本では、よく吠えるのが常識です。オバケのQ太郎ならずとも、犬に吠えられ、犬が嫌いになったという人もおられるでしょう。郵便屋さん、新聞屋さんだけでなく、私たちが発行している阿武山ニュースのようなお知らせや、回覧板などを近隣にお届けする時に、吠える犬がいると困ることがよくあります。しかし、犬を飼っていらっしゃる方々にとってみれば、飼い主である家族以外の見知らぬ人間が近づいてきた時に、警告を発してくれる番犬は、「セコムしてますか?」と同じように、役に立つ防犯設備だと言ってよいでしょう。

 ところが、不審な犯罪者が自宅に侵入しようとしている時、本来ならワンワン吠えて危険を知らせるべき番犬が、眠りこけて、ウンともスンとも言わなかったらどうでしょう。そのような番犬は、死んだも同然で、何に役にも立たない番犬だということにならないでしょうか。

 そうです。ヤコブが言いたかったのもそのような意味で「死んだ信仰」と言ったのです。
 だからといって吠えなかった番犬が、亀になったり、カタツムリになったりしたというわけではありません。ましてや、最初から犬ではなかったなどということを意味するわけでもありません。

 良い行いによって神の「恵み深さ、憐れみ深さ、気前よさ」を現すことをしなかったクリスチャンがいたとした場合、彼らも同じです。最初から救われていなかったとか、本物のクリスチャンではなかったとかいうことではありません。そんなことを言いたいが為に「死んだ信仰」という表現をヤコブは、用いたのではありません。

居眠りをしていたために、吠えることをしなかった番犬は、どうしたらいいのですか?自分が果たして本物の犬なのか、自己反省すべきなのですか?はてまた自分がひょっとして豚なのだろうかと悩やみ、苦悩すべきなのでしょうか?

とんでもない!

この次、しっかり役目を果たすため、吠えたら良いのです。

クリスチャンも同じです。

>僧侶亀谷稜雲と阿弥陀佛

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僧侶亀谷稜雲と阿弥陀佛

                                      池田 豊

 私の生まれ故郷の隣り、富山県にある日本基督教団、新庄教会牧師でいらっしゃった亀谷凌雲先生は、私がクリスチャンになって三年後、1973年に84歳で召天されました。先生は、浄土真宗の改組、親鸞上人の八代目の孫にあたる蓮如上人の家系に長男として誕生されました。
 蓮如上人から18代目の子孫でいらっしゃいました。富山の正願寺の住職の息子として生まれ、小学校に入学する前から饅頭笠をかぶって街路に立ち念仏修行をしておられました。

 金沢の旧制高校にて、西田幾太郎博士より、西田哲学と数学を学び、東京大学に進学され、姉崎正治博士から比較宗教学を学ばれました。卒業後、東京大学大学院にて、近住常観師に師事し浄土門の深い学究にいそしまれました。

 そして到達した結論は、
①阿弥陀仏は実在しない。
②極楽浄土も架空の空物語、空想話にすぎない
ということでした。

 悩みぬいた後、聖書を学び、クリスチャンとなられました。しかし、由緒ある寺の僧侶でいらした亀谷先生は、檀家の人々は当然のこと奥様の反対にあい、奥様が鉄道の線路に身投げしようと家を飛び出たのを泣く泣く連れ戻すこと、幾たびもあったと聞きます。

 もっとお辛かったのは、お母様が、悩み、統合失調症をわずらわれ、夜中、自害しようと墓地に飛び出したその後ろをおいかけたときでした。さすがに、恩義ある大切な母をこれほどまでに苦しめるとは、イエスキリストに従おうと固辞することは、あまりに非情、自己中心のきわみではないかと悩まれたのです。

 もう一度仏教にもどろうかと考えていたその時、突然、主の御心を示され、「なんじは我に従え」と主のご命令の御言葉を与えられたそうです。

 いかに母上が大事であろうと、阿弥陀佛が実在しない限りは、そこに真の救いはない。私の罪のために十字架におかかりくださった主イエス様以外に信頼すべき救い主はおられない。そう確信し、先生は、その全生涯を十字架のあがないを信じる信仰に徹し、ついにキリスト教の牧師となられたのでした。

 私は、クリスチャンになってまもなくでしたが、亀谷稜雲先生の「仏教からキリストへ」を購入して読みあさりました。

 日本中に主イエスキリストにある恵みの福音が広く述べ伝えられるために、私も、少しでも主のお役に立つ者とさせていただきたいと日々祈っています。

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